2009年4月11日土曜日

Hearing the Other's Voice: In Blake's MILTON

Blake's thought of "self-annihilation" in MILTON can be falsely identified with Urizenic self-grounded absolutism. One of the reasons why Blake can be easily associated with his ideological antagonist partly comes from a discourse of Blake legitmate criticism which has a characteristic tendency toward erasing the other in Blake's text by its overemphasis on the self's ultimate unification of the other to ignore "the generative differential movement" of his text. Especially in MILTON, however, we must not miss the point that in Milton's first utterance about his travel to "Eternal Death", his self-annihilation has a close relation to redemption of the others such as his Emanation and Satan. This suggests that Blake's "self-annihilation" is not a step toward achieving absolute self-identity but a moment of the radically changing relationship between the self and the other, which is also a counter-thought to a Satanic law or "Negation". In this degital paper, therefore, I shall mainly discuss three points as follows:

1. Milton cannot achieve his self-annihilation or even travel ahead without the hep of Ololon the other, for he was lost in a maze when his redeemed portion was driven down into Ulro.
2. The illocutionary force within Ololon's short utterance breaks up repetition of the false behavior toward the other as well as a chain of lamentation: Ololon's first encounter to Baulah which suddently appears as an unknown realm / state of being talls that its /her/their [i.e. Ololon's] behavior toward the other is decidedly different form that of other characters who excluded the other as an alien to sustain their established order.
3. Act of "hearing" the other's voice is given an important role in MILTON, for only "Nerves of the Ear" is completely free from vegetative or Satanic domination within "the Mundane Shell". Los heard Eden's lamentation to recover his lost prophetic voice; and Milton heard Ololon's voice to break his long silence and to reveal his vision of self-annihilation.

2009年4月6日月曜日

他者の声を聞くということーーブレイクの『ミルトン』における

 さしずめ『テンペスト』(Tempest) において「よく聞きなさい」という言葉の反復によって自らのディスクールの正当性の強化を図るプロスペロー (Prospero) のように、ブレイク (William Blake) の『ミルトン』(Milton) においても詩女神への呼びかけを終えた語り手に代わってこの詩の中心的声を引き継いだ吟遊詩人 (Bard) は、その長い預言の歌を高らかに歌い上げながら「よく私の言葉に注意しなさい!それはあなたの永遠の救済に係わっている」と七回も聞き手の注意を喚起する(1)。ところがプロスペローの場合とは逆に、その預言的ヴィジョンゆえ当然賞賛を与えられてしかるべき吟遊詩人が出会ったのは、皮肉にもその理想的聴衆であるべきはずのアルビオンの息子たち (Sons of Albion) の無理解であった。吟遊詩人はその歌の出自を質され、「詩的天才の霊感」に由来するとしたその正当性の主張も空しく、ついには『失楽園』(Paradise Lost) のサタン (Satan) 同様その正当な地位を剥奪され追放の憂き目を見ることになる (13 [14]:45-14 [15]:9)。

 だが吟遊詩人が遭遇したこうしたアイロニカルな状況が、搭乗人物ミルトン(Milton) 覚醒の引き金となる。聴衆の反応に恐れをなした吟遊詩人がミルトンの胸に遭難すると、ミルトンはアルビオンの諸天から立ち上がり、これまで失っていた声 (cf. “he was silent,” 2:18)を取り戻して「私は永遠の詩へ行くのだ」と宣言する。こうしてPlate 14 [15] に至って、やっと我々は搭乗人物ミルトンの口から直に彼の旅の目的を聞かされることになる.「最後の審判が来て滅却していない私を見ることがないようまた私自らの自己中心性 (Selfhood) の手のなかに捕らえられることがないように」(14 [15]:23-14) (2) と語るミルトンが目指すのは「永遠の死」=「墓」=「埋葬所」であり、その旅の目的は「自己滅却 (Self Annihilation)」である。さらに「私のエマネーションがいないのに審判を前にしてここでいったい何をするというのだ?」(14[15]:28) という表現は、詩女神への呼びかけでこの詩の語り手によってすでに提示されていた「エマネーションの贖い」というテーマ(2:20) に呼応するものだが、このミルトンの発話において初めて他者(=エマネーション)の救済が自己(=ミルトン)の救済と連結されているらしいことがおぼろげながら浮かび上がってくる。さらに特筆すべきは、このミルトンが「私は私の自己中心性において、あのサタンだ、私はあの悪しきものだ!私は私のスペクターだ!」(14[15]:30) と「吟遊詩人の歌 (The Bard’s Sond)」(2:25-13[14]:44)(3) に登場したサタン(Satan)との自己同一視に基づく自己告発をした後、「彼を私の地獄から自由にするために、地獄を私の溶鉱炉だと主張するために、私は永遠の死に行くのだ」(14[15]:30) と述べることによって「サタンの贖いのテーマ」を前傾化させている点である。さらにこのサタンの贖いは「ああ彼[=サタン]を取り戻すには何がなされたらよいのか?」(13[14]:4) というレウサ (Leutha) の嘆きの言葉に集約される「詩人の歌」の中心テーマのひとつでもあった。こうしてミルトンの発話の内部で、「詩人の歌」のテーマ「サタンの贖い」とインヴォケーション (Invocation) のテーマ「 エマネーションの贖い」は、ミルトン自身の「自己滅却」のテーマに連結されていくことになる。

 ここで問題提起をしておこう.つまりこう問うてみたい。ここで宣言されている「自己滅却」とはそもそもいかなるものなのか。それはなぜ、またどのように「他者の贖い」と関連しているのか、と。
 たとえばプライバティーア (Paul Michael Privateer) は『ミルトン』におけるブレイクのイデオロギー的立場の脱構築を目指すその論考のなかで「自己超克と自我の贖いが『ミルトン』および『エルサレム』が詩として目指すゴールである」としたうえでブレイクの「自己滅却』についてこう述べている。
 

 自己についての物質的概念の転覆を謀りながらもーーーブレイクにおいてこの試みに相当するのが「自己滅却」であるーーーそうした試みも所詮ヘーゲルあるいはカント的様式の《絶対的同一性の獲得》へ向かうひとつのステップでしかないという点で、ブレイクはロマン主義者の格好の一例となっている。簡単に言ってしまえば、ブレイクが自己を滅却するのはひとえに、もっと高度な形態の自己を産出しその自己へと回帰するためなのだ。
                      (Privateer, p. 98, 強調筆者)


ここで彼が問題にしているのは、たとえばイーグルトン (Terry Eagleton) によって「超越的精神という領域での自己に根拠を置く絶対主義」(Eagleton, p. 43) と称されるものと基本的には同種のものであり、それはブレイクのみならずイギリスロマン主義文学が論じられる際、亡霊のごとく浮上してくる争点のひとつでもある。
 だがまずここで明確にしておきたいのは、ブレイクがかなり初期の段階から「絶対的自己」を中心に構造化された世界とそのイデオロギーの対立者として自らを意識的に位置づけていたという点である。こうしたブレイクの批判的立場は、ランベス預言書の代表作『ユリゼンの書』(The Book of Urizen) でユリゼン (Urizen) に向けられた峻烈な批判的まなざしを通じて体系的に展開される。このテクストで、ブレイクは先行するテクストのパロディーを駆使しながら、自らの孤独のなかで、永遠界でただひとり自分だけが自律的かつ絶対的な存在だと誤認したユリゼンのふるまいの滑稽さを浮かびあがらせ、ユリゼンの権威者としての地位、さらには絶対的自己の超越的境位(???)そのものを突き崩そうと試みる。ゆえにその後の終始一貫したユリゼン糾弾のコンテクストのなかに「自己滅却」思想を位置付けようとするなら、当然それはユリゼン的イデオロギーに対する論争的意味を帯びてくるはずなのだ.しかしブライヴァティーアが指摘するように、それも最終的には「絶対的(自己)同一性」の獲得を目指すものにすぎないのだとしたら、ブレイクの攻撃的かつ論争的なスタンスそのものが疑問に付されてしまうことになろう。
 しかしながらブレイクの「自己滅却」の思想に反動の臭いを嗅ぎとろうとする視点の一部が、実はブレイク解釈学上の予備的知識と前提によって支えられていることが分かる(4)。ブライヴァティーアはダムロッシュ (Leopold Damrosch) の見解を引用しながらこうも述べている。


 堕落 (Fall) をなにか本能的な原初の統合状態からの落下/堕落 (Fall) とみるヘーゲルやシラーやその他ドイツロマン派の哲学者たちとは異なり「ブレイクが求めるのは媒介者を交えない絶対者との合一であり、そこでは感覚、ヴィジョン、存在、自己はひとつのものなのだ」。 (p.95)


 ここで使われている「媒介者を交えない絶対者との合一」や、さらに他の至る所にちりばめられた「起源としての超越的現実の再主張」(p. 94) とか「『ミルトン』における自己と他者との統合」 (p. 95) とかブレイクの「堕落前の人間の完璧に透明な起源としての言語」 (p. 94) への信仰とかいった用語ならびに表現そのものは、まさにフライ以降の正統的ブレイク批評のディスクールを特徴づけるものばかりなのだ。このディスクールは、自己と他者あるいは時間と永遠との差異を抹消し「自己と他者の統合」や「超越的現実としての永遠界」といったものをもっぱら強調する顕著な傾向を示す(5)。その根拠は、キリスト教的神話における堕落と復活あるいは楽園喪失とその回復という円環的図式を踏襲するブレイクが堕落 (Fall) をエデン=永遠界の統一状態 (Unitiy) から分裂状態 (Division) への移行として描き出していることにある.そこでブレイクにおける永遠界=エデンの回復は疎外された自己が起源としての自己同一性を獲得するプロセスとみなされ、ブレイクの神話体系は「自己同一性の寓話」へといっきに回収されてしまうことになる。だがこの「自己同一性」への回収のシナリオの背後では「エデンの統一=一」/「堕落後の分裂=多」という既成のの二項対立の図式が暗黙のうちに働いている。ところがこの図式こそブレイクがそのテクストのなかで絶えず修正破棄しようとしているものなのだ。なぜならブレイクのテクストにおいては永遠界=エデンが本来多様性を思考するものであり、逆に分裂によって生じた世界こそが一の原理すなわち自己同一性の原理による単一的統一へと向かう逆説的動きを示すのだから。

 ブレイクの預言書においてその登場人物たちは、互いが互いの体から引き離されてゆく。たとえば『ユリゼンの書』においてロス(Los)がユリゼンの背中から引き離され、今度はエニサーモン(Enitharmon)がロスから分離してオーク(Orc)を生み、さらに『アハニアの書』(The Book of Ahania)いてユリゼンからアハニア(Ahania)が分裂する、というように。こうした分裂が繰り返される度に永遠界は遠のき堕落が進行してゆく。こうして徐々に、だかしかし着実に堕落後の世界が確立されてゆく。ところが逆説的なことに、この堕落後の世界はあるひとつの中心に向かって構造化されようとする求心的動きを示す。そこでは抑圧者と被抑圧者は互いに同じシステム内部の共犯者と化し、各個人は自が意識するとしないとにかかわらず皆一様にひとつのシステムに従属(subject)し、そのシステムを支える力の臣民(subject)となることで主体(subject)としての自己同一性を手に入れる。神(宗教)=僧侶(教会)=王(専制君主制国家)というブレイクにおける悪の三位一体ーー−それは別名ロック=ニュートン=ベーコンともいうーーこそがその力の象徴であり、それは自律的かつ絶対的な自己を頂点とした階層的秩序を確立しようとするユリゼン的意志のなかに再現/表象される。つまりこの世界は『経験の歌』(Songs of Experience)で描き出された、あの経験界なのだ。さらに「痛みの無い喜び、変化の無い固体」(『ユリゼンの書』4:10−11)を志向するこの力は、閉鎖系としての完壁さを徹底して追い求める。だが思い出してもらいたい。これらはみな伝統的キリスト教(あるいはネオプラトニズムの影響下で世俗化されたキリスト教)で賛美の対象とされる不変牲と完壁さの追求、そしてその象徴としての一の数や円の形に符合するものなのだということを。そしてこのユリゼン的統一のイメージが、ブレイクにおいて分裂と堕落の進行を意味しているのはもはや言うまでもない。

 『ミルトン』においてこの堕落後の世界、経験界は「現世の殻(MundaneShell)」と呼ばれている。それはその内側にふたつの世界を内包する二重構造をとる。一方は「サタンの世界」であり、そして収縮するもうひとつの方は「アダム(Adam)」と名付けられ、墜落後のロスやユニサーモンたちの世界に相当する。この「現世の殻」の成立過程が提示されるのは「詩人の歌」においてである。そこではこの「現世の殻」が、ロスの二人の息子サタンとパラマプロン(Palamabron)の浮いを発端として永遠界にもたらされた「嘆きの日(a mournful day)」(8:22)の一連の出来事(すなわち永遠界に生じた堕落へと方向づけられた一一連の変化)の産物として語られる。それは具体的には、エニサーモンがサタンに対する偽りの憐れみから永遠界の中に新たに作り月の光で閉ざしてしまった「ひとつの空間」(8:43)であった(さらにこのエピソードはサタンの他者に対する偽りの情がエニーモンに転移したことを物語
るものでもある)6)。この空間の出現の結果として今度は永遠界から切り離された「サタンの世界」がこの空間内部に出現することになる。
 「現世の殻」についての視覚的理解の手がかりとなるPlate36Aのイラストから、このサタンの世界が上方へと燃え広がろうとしている炎のごとく、ロスたちの世界を下方から脅かし、勢力拡大のため今にも「現世の殻」全体をその支配下に置こうとしている様が見て取れる。となると『ミルトン』において「ウルロ(Ulro)」とも呼ばれるこのサタンの世界がすでに述べた自律的閉鎖系としてのユリゼン的世界に相当するものであるのは明らかだ(事実「詩
人の歌」でサタンはユリゼンと同一視されている“Then Los&Enitharmonknew that Satan is Urizen,”10[11]:1)。
 となると当然ブレイクの永遠界=エデンは、ユリゼン的統一とはまったく別の様式、ひょっとしたら無秩序や混沌のようなものとして理解されなくてはならないかも知れない(ちなみに『ユリゼンの書』でユリゼンが秘密裏にその活動を開始するのは永遠界の動きを混沌と判断したからだった)。この点でミルトンがその旅の宣言において、死を前景化しているのは注目に催する。だがもちろんミルトンの言う「永遠の死」が逆説的意味をはらむものであるのは言うまでもない。「墓」は文字どおり死者たちの場所であると同時に再生の場でもあるのだから。さらに『ミルトン』において永遠界の喪失=「嘆きの日」の始まりは巨人アルビオン(Albion)の殺害と結び付けて語られている(7)。そこで永遠界の回復と「嘆きの日」の終わりは、アルビオンの「動き」を喪失した身休=死体の復活というもうひとつの意味を与えられ、旅をするミルトンの自己滅却へと向かうその身体的動きが、アルビオン覚醒のテーマ
と連動してゆく(8)。そしてそこでは、人間をひとつの箱の様な体の内側から外界を覗き見る精神としてしか描き出せなかったロック(John Locke)の人間観からは完全に抜け落ちている、人間の身体がもつ躍動性にもっぱら強調点が置かれることになる。

 ゆえに結論を先取りする形で次の点を明らかにしておきたい。ブレイクにおける「自己滅却」とは、絶対的な自己同一性の獲得を目指すものなのではなく、互いに自己という閉鎖的世界に閉じ篭ろうとする個人どうしのいわば相互主観的関係性を、あるいは経験界ですでに確立してしまった自己と他者との基本的関係性を根本から変える可能性を秘めたひとつの契機なのだということを。そこで我々がこの論文でこれから目指すべき目的地は明らかだ。この論文の目的は、冒頭で指摘したブレイク批評の正統的ディスクール内でこれまで抑圧されていた「他者」を救済すること、そしてブレイクのラディカルとしての力を再び彼に取り戻してやることなのだ9)。

 「私は永遠の死へ行く」という二度にわたって反復された言語遂行的発話と同時に事実上すでに旅に出発していたミルトンは、ベウラ(Beulah)の外れで男女同体の姿(“A mournful form double;hermaphroditic:male&female/In one wonderful body”)をした自分自身の影(Shadow)に出会い、その影のなかに入り込んでゆく(14【15】:36−41)。ここを基点に登場人物ミルトンは「四重の人間(the Four-fold Man)」(20【22】:16)と呼ばれる四人の人格的存在として活動を始める。別の言い方をするなら、旅への出発と同時に、ミルトンという名のもとに同一視しうる人物が、異なる複数の時空に同時存在し始めるのだ。こうしたミルトンの存在の複数牲がこの詩を読み難いものにしている一方で、まさにそれかこのテクスト内で異なる時空に点在する登場人物たちを互いに結び付けてゆく重要な機能を果たしている。『ミルトン』には三つの基本的時空が存在する。それは以下のものである。

 1.「詩人の歌」の主要登場人物たちによって構成される時空。
これはロスとエニサーモンの世界ならびにサタンの世界を内包するすでに述べた「現世の殻」と呼ばれる時空である。ロスとユニサーモンの息子にあたるパラマプロン、リントラ(Rintrah)、オークだけでなく、ロス同様かつては「四人のゾア(Tbe Four Zoas)」と呼ばれていたユリゼン、サーマス(Tbarmas)等もそれまでの永遠界の住人としての地位から格下げされ、この「現世の殻」内部に閉じ込められている。さらにこの空間は「詩人の歌」で裁定者の役割を果たす永遠界の「大集会(Great Assembly)」によって六千年という時間が与えられ、その後のミルトンの旅の方向性を決定する重要なひとつの時空としての完成をみる。
 2.その預言の歌が終わると同時にミルトンの胸に避難した吟遊詩人に代わって再び語り手としての中心的声を手にした「私」のいる時空。
ないしは詩人ブレイクが生きていた当時のイングランド。『ミルトン』においてはブレイクが実際居を構えていたランベス(Lambeth)およぴフェルパム(Felpham)という地名が記号学的に重要な役割を果たしている。
 3.吟遊詩人の歌を聞いていなかったエデンの住人たちの時空。
Plate21【23】で登場するオロロン(Ololon)もこの時空の住人である。

 これら三つの時空が、複数の存在として動き始めたミルトンの旅の過程で互いに関連づけられ、物語としての動きを生み出してゆく。だが、さらにこのテクストには異なった時空の登場人物たちを結合するためのもうひとつの仕掛けがある。それは吟遊詩人、ミルトン、ロスそして語り手である「私」の四者間に起こる「合体」である。とは言ったものの、この合体が持つ意味は、主要登場人物たちを統合してゆく横能そのものにあるのではなく、この合体という装置が作り出す構造の方にある。というのも、このテクストにおいてあからさまに前景化されているーーそれゆえ「自己と他者との統合」という視点をいともたやすく招き入れてしまうことにもなるのだがーーこれら四者間の合体は「詩人」という共通項に基づく「置き換え/ずらし」にすぎないからだ。ゆえにむしろこの四者間で起こる数度の合体の方向が最終的に語り手
である「私」へと集中していること、そしてそうした構造こそがPlate36【40】でオロロンが女性の姿をして現われる購いのヴィジョン提示の場が、他のどの時空でもなくまさに語り手の「私」のいる「フェルパムの庭」であるベき必然性を生み出しているのだということにこそ注目すべきなのだ。
 いずれにせよ、ここでは『ミルトン』における合体がミルトンの存在の複数性を基盤にして初めて成り立つことを指摘しておくにとどめ、次にその合体の基盤となる四重のミルトンを記号化しておきたい。

Ml
「影」として歩いているミルトン。主にPlate14【15】,15[17],18[20]で語られる。
M2
詩人ミルトン(Jobn Milton)や十戒の神エホヴァ(Jehovah)さらには『ユリゼンの書』でのユリゼンのパロディーでもあるこのミルトンは、ウルロの残虐行為をホレプの岩の上でラハブ(Rahab)やテルザ(Tirzah)に口述しながら鉄の書手板(iron tablets)に書き付けている。これはミルトンのスペクターとしての肉体で「選ばれた者(The Elect)」としての部分に相当する。15【17】:51−16【18】:17で語られる。
M3
アルノン(Arnon)でユリゼンと対決しているミルトン。『ユリゼンの書』で完全な「非存在」に陥ろうとしていたユリゼンを救おうとしたロスのように、このミルトンはユリゼンに「輝ける肉体」=形=生を与えている。「彼の購われた部分者(his Redeemed portion)」の外側に相当。主に18【20】:51−19【21】‥14で語られる。
M4
御前の七人の天使(SevenAngelsofthePresence)によって知覚を与えられ「第八の姿」として彼等に守られエデン(Eden)を歩いていたミルトン。彼は「購われた部分」の内側で、特に上方を歩く「真の人間」と表現される。しかしベウラに達したときその様子を見て怒りに駆られたエデン=永遠界の住人たちによってウルロに落とされる。15【17】:1-20および20【22】:43−50で語られる10)。

 これら4重のミルトンの旅がPlate13からPlate20において線上的時間線を無視しながらも連続して語られている。だが今このような複数のミルトンの記号化を敢えて行ったのは、M4のミルトンがウルロへ落とされたPlate20【22】の時点でミルトンの旅は行き詰まってしまうことを示すためだ。まずMlのミルトンはロスによって行く手を阻まれる11)。M2のミルトンは「私」と合体したミルトンの一部だが、ホレプでの執筆活動に専念しその歩みを止めている。M3はユリゼンの輝かしい肉体の創造に従事し、これまた歩みを止めている。そしてM4はウルロというデッドエンドに落とされてしまった。さらに重要なのは、ユリゼンと対決しているミルトン(M3)を目撃したラハブとテルザが、彼をおぴきよせ川を渡らせようとその息子や娘たちを送り出したPlate19[21]の逸話である。というのも、この息子や娘たちは「二重の男女同体(The Twofold form Hermaphroditic)」の姿をしてミルトンの前に現われるからだ(32−34)。これはまさに旅の直後ミルトンが遭遇したあの影そのものではないか。だとするとM1-M2−M3の動きが円環的反復に巻き込まれてゆくのは必至だ。明確な目的地へ向かうはずのミルトンであったが、ここに至って自己滅却への何の手がかりも見い出せないまま、出口と入り口とが奇妙に重なりあう「迷路」のなかに今まさに閉じ込められようとしているのだ12)。
 しかしながら・この行き詰まりは、ミルトンの旅を援護する「他者」の出現により急速に打開へと向かう。この他者とはミルトンと合体した「私」でもなければ永遠界の預言者ロスでもない。ミルトンが入り込んだ迷路は全く別の他者の働きかけによって打破される。それは第3の時空で、オロロンという新たな存在によって。

 「オロロン」が我々に最初に提示されるのは、エデンを流れる川の名前としてである(21【23】‥15)。だがその甘美な川の岸辺では永遠なる者たち(the Eternals)が自分たちが犯した事の重大さに気付き自責の念に苦しんでいた。というのも「吟遊詩人の声を聞いていなかった」彼等はちょうどミルトンの行く手を阻んだロス同様、それが「覚醒させる者ミルトン」であることを知らずにミルトンをウルロへと追い落としてしまったからだ(21【23】‥32−34,強調筆者)。だが預言的「声」から疎外されている彼等の口から発せられるのは取り返しのつかない過去への終わりなき嘆き(lamentation)の歌だけである。彼等はその嘆きのなかで神の家族(Family Divine)を呼び集めるが、彼等にできることはやはりただひたすら泣きながら、ミルトンやオロロンの身の上を悲しむことだけだった(21:41−44)。こうした嘆きの連鎖ーーこれは「詩人の歌」での「嘆きの日」の延長なのだがーーの直中で、ただひとりオロロンだけがこの連鎖を断ち切る可能性を秘めた発言をする(21【23】‥45−50)。
 その発話のなかでオロロンが言う「これまで目に見えなかった下方のこの世界」(21【23】:48)とはベウラを指す。ベウラとは、ウルロやエデン同様ひとつの空間的領域であると同時に、人間が置かれたひとつの状態=人間存在の様式でもある。さらにオロロンの口から発せられた驚博を示す言葉(“how is this wondrous thing?”21【23】:47)から、それがオロロンを初めとするエデンの住人にとってきわめて異質の存在領域/様式であることが察せられよう。だがエデンの下方に突如出現したこのベウラにひどく動揺しなからも、オロロンはウルロに閉じ込められたミルトンを追ってウルロへの通過点としてのベウラへと今まさに自ら入り込もうとしているのだ。ベウラとの遭遇に際してオロロンがとったこうした態度と、ミルトンをウルロへ追い落とした他の永遠なる者たちのふるまいとが、どれほど相違するものであるかに着目することは特に重要だ。というのも永遠なる者たちが後に後悔すべきその行為へと駆り立てられたのは、彼等が下方のベウラの領域を覗き見て「憤怒に満たされ」たからなのだ(20【22】:45)。

 彼等永遠界=エデンの住人たちにとってベウラとは存在しえないもの/してはいけないもの、すなわち自分たちの理解の範噂を超える「絶対的他者の領域」を意味した。ゆえに彼等ほ怒りに駆られ、ゆえにベウラの領域内を歩いていた/ベウラという存在状態に陥っていたミルトンを唾棄すべき者としてウルロへ閉じ込め、彼等の認識領域から排除したのだ。オロロンの発話における「大いなる永遠界の闘争からのこの避難所!不自然な避難所が!」(21【23】48−19)という表現もベウラが抱えるこうした理解不能の他者牲を裏書きしている13)。
 ところで他者との遭遇の際に経験する絶対的恐怖を処理する方法として通常「逃避」「排除」「受容」の三つの選択肢があると考えられる。一番目の行動は『セルの書』(The Book of Thel)で自分にとって異質な存在の在り方に恐怖して逃げ戻ったセル(Thel)に典型的に見られるものだ。次の排除−これは永遠界=エデンの住人たちがとった行動だがーーと受容は一見するとまったく別のものに見えるが、両者はともに自分が遭遇した他者の分析と判断を行動の起点としている。つまり、まず他者を自己の価値基準で測り、手懐けられると判断された場合は受け入れ、そうではない場合は排除することになる。ゆえにこうした意味での排除と受容は、他者からその他者牲を奪うことで自分たちの恐怖を緩和させ、他者によって脅かされそになった自己の安定性を回復しようとする点では、まったく同じふるまいから導かれたものと言えるのだ。
 だがオロロンは第四の選択肢がありうることを我々に示唆する。オロロンはベウラを飼い慣らすことによってではなく、「不自然」で理解不可能だが、それゆえそれにもかかわらずそういうものとしてベウラを受け入れる。しかもベウラという「絶対的他者の」領域に自ら入り込み、ベウラという存在様式を自ら引き受けようとしているのだ14)。あるいはこういう言い方もまたできるかも知れない。オロロンが自己の理解を超えたところに自己の対極として位置する他者に、自己に対するのと同レベルの深い共感と理解を示した(「さあ私たちも降りて行こう」と発言した)時にこそ、初めてベウラの領域は他者への認識のかけ橋としてオロロンの前に出現したのだ、と。
 さらにここで強調しておくペきは、この他者性−それはエデンにとってのベウラの他者牲であるのはもちろんのこと、オロロンにとっての他者ミルトンの他者牲でもあるのだカ 」 に対するオロロンの基本的姿勢は、「詩人の歌」における逸話の動きとは決定的に異なる動きを志向しているという点だ。なぜなら「詩人の歌」の一連の出来事は排除と選別による秩序の回復を目指すものであったからだ。そしてミルトンをウルロに落とした永遠なる者達はもとより、第一の時空「現世の殻」内部でミルトンの進路を阻んだロスやユリゼンもがその延長線上にいたことは言うまでもないだろう。そこでオロロンの短い発話に凝縮された革命的力/回転力を再度強調確認する意味で「詩人の歌」の逸話を振り返ってみたい。

 サタンとパラマプロンの浮いの発端は、永遠界のひき臼(Mill)を司っていたサタンが全能者の馬鋤(the Harrow of the Almighty)を駆るパラマブロンの位置(station)を自分に与えてくれるよう父ロスに懇願したことにある(=他者の領分への強引な介入の企て)。パラマプロンの拒絶にもかかわらず、サタンによる再三の奉仕の申し出に根負けしたロスが、パラマプロンの馬鋤をサタンに与える(=侵犯行為の追認)が、結果的にサタンがパラマブロンの領域に混乱をもたらしたことが明るみになり、永遠界全体が大混乱に巻き込まれることになる。だが厄介なのは、サタンが示す有り得る限りの柔和な態度(extreme mildness)ゆえ、その介入が当初誰の目にも暴力的侵略行為には見えなかった一自分の領分が侵害されたことに怒りを覚えたパラマプロンでさえ、サタンの柔和さを前にして感情を自制した−だけでなく、サタン本人も自分が他者の領分を犯しているなどとは考えもしなかったことにある(7:39−10)。しかしサタンが他者に対して示した配慮か他意のないものだと彼本人が信じていようといまいと、彼の一連の振る舞いは、感情レベルで他者を飼い慣らし他者の他者牲を奪おうとする暴力以外の何物でもないのだ。そして他者に対するサタンの優しさや憐れみや気遣いがいっきに他者への服従の強要へとその姿を変える、いやむしろ一見全く正反対のこうしたふたつの態度が、実はサタンの「独善」の表と真にすぎないことが露呈する時を迎えることになる。それはパラマプロンによって召集されたエデンのすペての住人たちによって構成される大集会を前にして、サタンが旧約の神エホヴァを想起させる口調でこう宣言する時である。「私だけが神だ。他にはいない。すべての者たちを道徳的個人性という私の原則に従わせよ」(9:25−26)と。こうしてサタンの永遠界のひき臼(Mi11)は抑圧的システムとしての圧搾枚(Mill)へと変貌を遂げ、ウルロの世界すなわちサタンの胸の中の「広大な底知れない深淵」(9:34)が出現することになる。
 だがここで注目してもらいたい。このサタンの専制的神の宣言がなされたのは、エデンの大集会が裁定を下した(そしてその裁定に憤りを覚え天地を呪ったロスが衝動的に世界の極を変えてしまった)直後だということを(9:8−12,9:13−18)。大集会の審判はサタンの擁護者として被告席に立ったリントラに下ったが、それは同時にサタンを「神に見捨てられた者(The Reprobale)」として事実上エデンから追放することを意味した(9:12)。こうした永遠界の大集会による秩序回復のための排除と選別が、さらには自己の基準で他者を計り他者の運命を確定してしまう行為そのものか、たとえ仮にそれもひとえに悪化の一途をたどる事態収拾のためなのだと言い張ったとしても、裁定者という特権的地位を利用した暴力の行使ではないとどうして断言できようか。要するに他者に対する裁定者としての大集会のふるまいは、自己の基準を他者の領域に持ち込もうとしたサタンの振る舞いの反復であり、この反復牲がサタンの専制的神の宣言を可能にする下地を与えたのだ(さらには、そのサタンの宣言における服従を強要する高圧的態度は、服従を当然視する大集会の裁定者としての高圧的態度の反復と見ることもできる)15)。
 こうした「詩人の歌」のコンテクストに先のオロロンの発話を置いてみると、それが「詩人の歌」のなかで反復強化されながら確立されていった自己と他者との基本的関係性を根本から覆えす力を秘めていることがわかるだろう。そこでオロロンによる「罰する者を美徳というのか?決してそうではない。」(21【23】‥47)という発話が、他者牲への耐え難い恐怖ゆえミルトンを罰し、ウルロへ閉じ込めた他の永遠なる者達に対する批判であるだけでなく、彼等の
嘆きの連鎖の起源としての「詩人の歌」の大集会のふるまいをも明らかにその射程内に置くものだと言えよう(さらに付け加えるなら、自分たちの理解力の範囲をはるかに超えた預言の歌に対する恐怖と不信感ゆえ、吟遊詩人を自分たちの領域から追放したその聴衆アルビオンの息子たちも同じ批判的まなざしに曝されることになる)。
 さらに重要なのは、他者に対する認識の転換点としてのオロロンの発話を境に、『ミルトン』に初めて「対話」が導入され預言的「声」が復活する点だ。オロロンの決定的発話の直後、神の家族たちは明確な「声」でオロロンの「声」に応える。彼等の声からは嘆きのトーンはすっかり消え、逆に預言的ヴィジョンを提示しながらオロロンを励ます(21【23】:5ト57)。嘆きの連鎖を断ち切った神の家族はオロロンと結合し、ひとりの人間イエスの姿(“One Man even Jesus,”21[23]:58)をしてオロロンの雲のなかに現われる。こうして「オロロン」によるミルトンの旅の進路を再び辿る新たなもうひとつの旅が始まり、ここから他のすべての時空が、そしてその主要登場人物たちが、いっきに合流へと向かう。変化のひとつはまずロスに現われる。

 すでにミルトンと合体し今まさに歩き出そうとしていた「私」の前に今度はロスが突如姿を現わし、不安と恐怖でランベスの谷(the Vale of Lambeth)に立ちすくむ「私」との合体を遂げる(22[24】:5−14)。その直後、ロスはそれまで喪失(loss)していた「声」を取り戻し「詩人の歌」以降初めて語りだす。しかも自信に満ち溢れた永遠界の預言者の声で「私は六千年前に永遠界の胸にあった私の場所から落下したあの影のような預言者だっ六千年は終わった。私は帰る。時間と空間はともに私の意志に従う。」(22【24い5−17)と。この預言的声の回復を「私」との合体によるものと見ることもできようが、ロスが「私」の元に降りて来たそもそものきっかけは、彼がオロロンたちの声を「聞く」ことによってエデン=永遠界での一連の動きを察知したからなのだ(“WhileLos heard indistinct in fear, what time I bound my sandals / On; to walk foward thro’ Eternity, Los descended to me”【22[24]:4-5,強調筆者】)16)。さらにオロロンの発話直前に置かれたエデンでの一連の動きを描写する箇所では「聞く」という知覚行為に重点が置かれ、ロスがエデンの住人たちの声を「聞いた」という事実は三回にわたって語られている17)。

 『ミルトン』において「聞く」という知覚行為は、それがエデン回復あるいはその序曲としての「現世の殻」内部のロスの世界の中心都市ゴルゴヌーザの活動再開への動きと連動している点で、「見る」という知覚行為に優先する重要な枚能を果たしている。このことを例証するものとして、第一巻後半部において「聴覚神経(Nerves of the Ear)」がロス本来の創造的仕事と結び付けられ、植物的生に犯された視覚神経(the Optic vegetative Nerves)やユリゼン的固体に同化した鼻孔神経(Nerves of the Nostrils)さらには閉ざされた舌の神経 (Nerves of the Tongue) を購うものとしての地位を与えられていることを指摘したい(29【31】:32−50)。堕落後の世界において聴覚神経だけが完壁な喪失状態から免れているということを。

 他者の声に耳を傾けること、自己でない者の存在を知ること。他者に対する主体例の認識の変化を如実に物語るこうした行為こそが、コミュニケーションの出発点、すなわち自己がその閉鎖系を「破り(breach)」開放系としての外部へと開かれてゆく契機/瞬間となりうる1き)。ゆえに「詩人の歌」で錯誤へと方向づけられてしまったロスの認識的転換点を意味するその知覚行為ーー口スがオロロンを始めとする第三の時空の住人たちの「声を聞いた」ことーーが、まさに彼の預言的「声」の回復/預言者としての覚醒の直接の誘因となっているのだ。そして我々はこのロスに生じたのと全く同じ決定的変化にもう一度出くわすことになる。三つの時空の合流点、フェルパムの庭で。というのもミルトンか我々の前に再び姿を現わし、その高らかな旅の宣言以降完全に奪われていたその「声」19)を再び取り戻したのは、まさに彼を求めてフェルパムの「私」の庭へ降り立ったオロロンの声を「聞いた」からなのだ(“So Ololon utterd in words distinct the anxious though/Mild was voice, but more distinct than any earthly / That Milton Shadow heard & condensing a11 his Fibres / Into a strength impregnable of majesty&beauty infinite”【37【41]:4-7,強調筆者】)20)。

 『ミルトン』はサタンと対面したミルトンの発話内部で「自己滅却」のヴィジョンが開示されるその時クライマックスを迎える(38【43】:29−49)。だがそのヴィジョンを理解することば我々にとって決して容易なことではない。なぜなら、それを理解するためには「自己滅却」思想か我々に突きつけてくる困難な問いに答えねばならぬからだ。他者の他者性を否定することなく、飼い慣らすこともなく、かといって他者に自らを盲目的に委ねることで他者に
とっての「対立者(Contrary)」としての自らの位置を放棄することなく、そうしたことを一切せずに「否定(Negation)」として自己の前に立ちはだかる他者を救済するなどということばそもそも可能なのか、という問いに。だがしかし、ここで答えうる確かなことがひとつだけある。ミルトンによるこの「自己滅却」のヴィジョンが「現世の殻」を崩壊に導くだけの絶大なる起爆力を秘めているということ。そして最後に再び強調しておこう。そのヴィジョンが可能となったのはミルトンが声を聞いたからなのだ。「それ(It)=エデンの川」でありかつ「彼【彼女】たち/それら(They)=旅をするエデンの住人たち」であり、さらに今、「彼女(She)=12才の少女でありかつミルトンのエマネーション」としてミルトンと「私」の前に現れた、・社会文化的制度としての人称/性の構造、すなわち「現世の殻」出現とともに「織られた性的構造(Sexual texture Woven)」(4:4)を変えうるかも知れない、すべての者にとっ
ての「見知らぬ者」、オロロンの声を。


              註

(1)ブレイクのテクストはThe Complete Poetry & Prose of William Blake, ed. David V. Erdman, rev. ed. (Berkeley: University of California Press, 1982)を、彩色本としてのテクストはThe Illuminated Blake,annotator,David・Ⅴ・Erdman(Garden City,NY: Doubleday,1974)を使用。

(2)本来ならブレイクにおけるキーワードともいうべきSelfhoodには思いきって「私に覆い被さるもの」とでもいった訳語を与えたいところだ。というのもPlate18A【K16】のイラストでミルトンの左足によってふたつに引き裂かれたSelfhoodの文字が暗示するように、Selfhoodという語はhood(フード、頭巾)をかぶったself自己)という意味を内部に抱え込んでいるからだ(Cf. Hilton,pp.244−15)。事実、Plate40【461のミルトンの発話内でSe瓜00dは、脱ぎ捨てられるぺき「外被(Incrustation)」として表現されている(40【461‥35−36)。
(3)以下「詩人の歌」と略す。

(4)ブレイク批評における解釈学的円環のパラドクスについてはShaviro, pp.229−37参照。

(5)Frye以降のブレイク批評の流れを整理したものとしてOtto,pp.1-33 参照。

(6)涙にくれるサタンに抱擁されたパラマブロンが泣き(7:15)さらには事の真相を知ったロスも泣く(8:14)一口ス(Los)が泣くとき輝ける太陽の子(Sol)は大いなる喪失の悲しみの子(Loss)と化す。このように「詩人の歌」における感情レベルでのサタン的特質の転移は拡大してゆく。

(7)“Albion was slain upon his Mountains”(3:1)・See also 19[21]:20.